興国寺城跡・原宿
Koukokuji castle ruins & Harajuku
(静岡県沼津市)
2025年9月24日水曜日

このページの参考文献:沼津市教育委員会 2023 『史跡興国寺城跡保存活用計画
※リンク先にはpdfファイルが「ダウンロード版」と「モバイル版」(低解像度)の2種類ある。


9月下旬の、秋分の日(9月23日、この年は火曜日)と土曜日の間にある3日間(水・木・金)を少し遅めの夏季休暇にした。
"6連休"の2日目にあたるこの日、6年前に計画だけ立てて行けずにいた興国寺城跡と原宿への旅を実行。
東京都・神奈川県以外への移動は2020年2月29日に偕楽園(茨城県水戸市)へ行って以来約5年半ぶりだった。

[現在地:JR東海道本線三島駅(静岡県三島市:CA02)]
伊豆急下田・修善寺行き特急「踊り子1号」でまず三島駅まで来た。
なお、踊り子1号は熱海駅で前9両(1~9号車)伊豆急行線直通伊豆急下田行きと後ろ5両(10~14号車)伊豆箱根鉄道駿豆線直通修善寺行きに分割される。
途中駅での分割・併合や他社線(JR東海・伊豆箱根鉄道・伊豆急行)への乗り入れといった要素は省力化のターゲットにされやすいが、この列車はいつまで運行され続けるだろうか。

熱海駅で5両編成になった修善寺行き「踊り子1号」は、三島駅ではJRの1番線発着だが、その後渡り線を通って伊豆箱根鉄道駿豆線に入る。
三島駅で乗り換えた浜松行き普通列車は最新の315系だった。
沼津、片浜と停車していき、その次の原駅(CA05)で下車。
原駅は駅舎に接した単式ホームの1番線+島式ホームの2番線・3番線という、いわゆる国鉄式配線の駅だが、定期列車はすべて島式ホーム発着(2番線が三島・熱海方面、3番線が静岡・浜松方面)である。
画像では電線が被って見づらいが、1番線ホームから(頂上は雲に隠れてしまっているものの)富士山が見えた。

1番線ホームには「名所案内」とランプ小屋(油庫)がある。
名所案内には白隠禅師(白隠慧鶴)の菩提寺だという松蔭寺しか記されていないが、改札外には松蔭寺以外の見どころも記載された「文化財みちあるきマップ」が設置されている。
左の画像は原駅の駅舎。
土蔵を意識したのか、下部を格子模様のなまこ壁風にしている。

右の画像は駅前ロータリー。
駅舎から出てすぐの面がタクシーの乗降場で、向かって左側(画像の奥側)と向こう側の面(画像では見切れている)はバス乗り場、向かって右側の面(画像の手前側)は一般車の乗降スペース。
原駅からは静岡県道165号原停車場線を歩く。
北に進んですぐにたどり着く「原駅入口」交差点で右折。
原駅入口交差点からは旧東海道を東進。
[←左画像]現在手芸店がある場所はかつて問屋場だったらしい。

[右画像→]静岡銀行原町支店の向かい側には「沼津市原宿」および両隣の宿場「吉原宿」(静岡県富士市)・「沼津宿」(静岡県沼津市)の名を記した標柱と「原交番前」バス停、その奥には浅間神社がある。
原交番東」交差点で左折し、進路は再び北へ。
ここからの道には「興国寺城通り」の通称がつけられている。
(興国寺城通りは原交番東交差点よりも南、静岡県道380号富士清水線に突き当たる県道原東町交差点まで続いている。)
国道1号(沼津バイパス)の手前(南側)には沼川が、画像の奥(西方)に向かって流れている。
沼川は東海道本線吉原駅の西にある田子の浦港(静岡県富士市)で駿河湾に注ぐ。
国道1号(沼津バイパス)の原東町交差点には南北方向の横断歩道がないため、歩行者は歩道橋で越すしかない。
原東町交差点の歩道橋上から富士山を望む。
今度は高橋川という小さな川に架かる「三合橋」を渡る。
高橋川は先ほど渡った沼川の支流で、ここから約1km西にあるIHIの工場そばで沼川と合流する。
右にあるストリートビューの画像が沼川と高橋川の合流点。
ここからさらに沼川第二放水路が分流するため、十字路のようになっている。
[←左画像]三合橋を越えると、興国寺城通りの東側には川というより水路といったほうがいいような池田川が現れた。
しかし、池田川は「根古屋南」バス停のすぐ先で北東へ向きを変える。
(実際は画像の手前側が下流になるので、途中から興国寺城通りに沿って流れ、三合橋付近で高橋川に合流、が正しい。)

[右画像→]ようやく今回の旅の目的地が見えた。
だがその前に…
丁字路の傍らには池があり、弁財天を祀った小さな社が鎮座していた。
静岡県道22号(主要地方道)三島富士線に突き当たった丁字路が興国寺城通りの終点・根古屋交差点
画像奥には「国指定史跡興国寺城整備計画図」と記された、図入りの大きな看板が建っている。
原駅から、何度も足を止めて撮影しながら30分ほど歩いて、興国寺城跡に到着。この場所は城内の「三の丸」にあたる。

なお、根古屋交差点付近には「東根古屋」バス停があって沼津駅との間を結ぶバス路線および原駅との間を結ぶコミュニティバス路線(乗合タクシー)が設定されており、上手く利用すれば所要時間を短縮できるが便数は多くない。
参考までに、2025年4月7日改正のダイヤで沼津駅南口発の富士急シティバスのうち東根古屋を経由する「東平沼」行きは午後のみ4便、さらに土・日・祝日は1便運休となって一番早い便でも到着は16時頃。
逆方向の沼津駅南口行き富士急シティバスは午前中のみ4便、土・日・祝日は10時台の1便が運休となって最終便は30分ほど早くなる。
また、原駅発着の乗合タクシー「ミューバス原・浮島線」(訪問時点での最新は2024年4月1日改正のダイヤ)は東根古屋を経由する「荒久」行きと「浮島地区センター」行きが合わせて9便(土・日・祝日は1便運休)、逆方向の原駅行きが10便(土・日・祝日は2便運休)、原駅から東回りで東根古屋を経由して原駅に戻る循環系統が朝2便+夕方1便運行されており、ほぼ1時間に1便。
※最新の運行状況は沼津市および富士急シティバスの公式Webサイトを確認すること。
静岡県道22号三島富士線はこの地に古くから通っていた道の名を継いで「根方街道」とも呼ばれるが、現在の根方街道(県道22号)は東大手(画像の奥の方)からの登城道をそのまま伸ばすような形で興国寺城三の丸を南北に分断してしまっており、本来の根方街道は三の丸と外堀を避けるようにもっと南を通っていたらしい。
三の丸と外堀を隔てる土塁は画像の右奥、県道22号の南にあったといわれているが廃城後に削られてしまったようで、画像の範囲内では跡形もなくなってしまっている。
右にあるストリートビューの画像では、奥に見える(木ではなく)茂みのあたりに土塁があったといわれている。
[←左画像]城跡への出入りに使う管理用道路の傍らには、北条家の家紋・三つ鱗に続いて「駿州興国寺城」と記された幟が立てられている。
なお、この管理用道路は南北方向へほぼまっすぐ通されているが、当然往時の登城経路とは異なる。
沼津市が策定した興国寺城跡の整備計画では可能な限り往時の登城経路を再現するらしく、それによると、画像左端を通って奥に見える大きな木の手前付近で桝形を右折して二の丸に入るようだ。

[右画像→]画像に埋め込んだキャプションには入れていないが、この場所はもう二の丸の中らしい。
二の丸跡のうち、管理用道路より東側の部分。
二の丸跡のうち、管理用道路より西側の部分。
南側にあったとされる土塁はご覧の通り跡形もない。
少し北へ移動して、再び二の丸跡の西側を撮影。
なだらかな斜面になっているあたりが二の丸と本丸の境目で、本丸の虎口は斜面の中央付近にあったらしい。
振り返って二の丸跡の東側を撮影。
興国寺城本丸跡に到着。
本丸は南以外の三方を巨大な土塁に囲まれている。
 管理用道路より東側の部分は本来、中央画像付近にあった「カクシ口」という、土塁に挟まれた南北方向の狭い通路で西側部分とつながっている構造だったらしい。
南側には「(伝)石火矢台」がある。
「(伝)石火矢台」に近づいて撮影。
実際に石火矢(大砲)のための砲台として造成・運用されたかどうかは定かでない。
「(伝)石火矢台」から北を向いて撮影。
大土塁の東端は、往時は今よりも南に伸びていたらしい。
大土塁に沿って北上する管理用道路を進むと、本丸の最奥部が見えてきた。
[←左画像]管理用道路から大土塁の西側方面を見る。
[右画像→]管理用道路から大土塁の東側を見上げる。
空堀や山城の堀切からではなく、平地部分から見てこの迫力。
本丸の最奥部にある「高尾山穂見神社」。
山号から甲斐国高尾(現在の山梨県南アルプス市高尾)にある穂見神社の分社と思われる。
近世末期の安政4年(西暦1857年)にこの地に勧請されたと伝わっている。
左画像は鳥居の傍らにある力石。
少し高くなったところ(右画像)には「初代城主北條早雲碑」と「興國寺城主𠀘𡌛康景碑」がある。
「北條早雲」は言わずと知れた小田原北条氏(後北条氏)初代である北条早雲(伊勢盛時・伊勢宗瑞)のこと、「𠀘𡌛康景」は徳川家の重臣だった天野康景のこと。
康景は慶長6年(西暦1601年)に1万石の大名として興国寺城へ入城したが、6年後に家臣による天領民の殺傷事件がきっかけで子の康宗とともに出奔。
康景の改易とともに興国寺城は廃城となった。
康景と康宗が出奔した先は小田原藩領の相模国沼田(現在の南足柄市沼田)にある西念寺。
西念寺には康景の墓がある。
穂見神社の右手には大土塁に登るための階段が設けられている。
この先に「(伝)天守台」がある。
その前に、大土塁の上から南方を望む。
画像の中央に興国寺城通り、その奥には微かに千本松原が見える。
「(伝)天守台」の南側には石垣が積まれている。
ただ、ご覧の通り一部が崩れているため立入禁止の箇所がある。
先ほどとは少し違うアングルで南方を望む。
奥には微かに伊豆半島が見えた。
大土塁の中央部、「(伝)天守台」に到着。
ここからさらに先へ進むと西櫓台跡があるらしいが、すでに蓄積している足のダメージと足元の不安定さを考えると、無事に行って戻ってこられる確信がないため自重した。
「(伝)天守台」からの南方の眺望。
樹木に遮られない西櫓台からはもっと素晴らしい景色が見られるようだが、どんな景色かは君の目で確かめてくれ!
 「(伝)天守台」からの北方の眺望。
大空堀を挟んで「北曲輪」があったらしい。
 
 大土塁の東側(東櫓台があったらしい)には大空堀へ降りる階段が設けられている。
ただ、先述の通り足にはかなりのダメージが蓄積している。
大空堀は大土塁の上から見下ろすだけにとどめた。
大土塁から降りると、管理用道路を引き返して県道22号に出た。
最後に、東側の外堀跡を見てから興国寺城跡を離れた。
三合橋から高橋川の上流方向を撮影。
旧東海道の原宿に戻ってきたが、原宿はいくつかの寺社を除いて宿場の雰囲気を残す建物や施設が残っていなかったのか、他の多くの旧宿場町ほど観光地化されておらず、文化財みちあるきマップで紹介されていた見どころも白隠禅師関連が多かった。
ここは白隠禅師誕生地とされる無量堂。
資産家植松家が戦国時代末期から長い期間をかけて花卉銘木を収集し作庭した「帯笑園」。
土曜・日曜・祝日に限り開園するが、生垣が低いため、外からある程度園内の様子を見ることが可能。
歯科医院の隣が原宿の本陣渡邉平左衛門家跡。
渡邉家は源義経の兄阿野全成の子孫だと言われている。
本陣跡から見た旧東海道。
左画像が西(吉原宿方面)、右画像が東(沼津宿方面)。
一旦原駅に戻ったが、帰りの電車までまだ時間がある。
そこで、駅の西にある踏切を渡って静岡県道380号(富士清水線)へ。
沼津バイパスが国道1号になる前はこの道が国道1号だったらしい。
沼津市西間門から富士市東柏原まで千本松原に沿っていることから「千本街道」という愛称もつけられている。
先ほど渡った踏切をもう一度渡って、今度は東海道線沿いにある浅間神社へ。
掲題にある由緒記によると天文2年(皇紀2193年、西暦1533年)8月2日創建というかなり古い神社だが、線路側の大鳥居は平成4年、右画像の一の鳥居は平成6年に建て替えられている。
「産土神浅間神社」の社号標の側面には「停車塲記念」(停のつくりは"𠅘")と記されている。
これ自体はおそらくどこかのタイミングで建て替えられたが、"初代"の社号標は原駅の開業を記念して建てられたものということだろうか。

再び原駅に戻り発車案内を見たところ、次の電車があと数分で来ると表示されていたため、予定より1本早い電車で原駅を後にし、帰宅の途についた。

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